「大の練習嫌い」、青木愛がシンクロを続けた理由
8歳から始めたシンクロナイズドスイミング(2017年より国際的に「アーティスティックスイミング」へ改称)で念願のオリンピック(2008年北京)に出場するも直後に引退、競技の第一線から離れた青木愛さんは、大阪の名門スイミングスクールで育ち。ジュニアの代表にも選出されたエリート・アスリートだが、実は大の練習嫌いだったそうだ。
そんな青木さんを支えたのが、幼い頃に抱いたオリンピックへの憧れとシンクロへの強い愛。生後10ヵ月から23年間、高いレベルの舞台で歩んできた水泳人生を振り返った。
身近にいた五輪選手に憧れて始めたシンクロ
水泳を始めたのは生後10ヵ月です。親子の健康のためにベビースイミングで、通っていたのは京都では歴史のあるスイミングスクールでした。シンクロ自体を始めたのは8歳で小学校2年生の終わりから。
もともと水泳は楽しくて、ずっと続けていました。その中で、シンクロコースに通っていたお姉さん方、選手の方が、幼児コースが始まる前の体操時に遊んでくれたりして。あと、オリンピック選手が練習に来られたりするのを見ていて、「私もやってみたいな」と思ったんです。
最初は水の上に浮くこととか、浮けるようになったら脚を上げること、倒立したり手の掻き方を教えてもらったり…と基本から教わりました。最初はできないことが多いですが、その分だけ吸収できることもたくさんあって。ひとつずつ技を身につけられるのが楽しかったです。
シンクロを始めた時からオリンピックには「出る」と思っていたんですよ。「出たい」ではなく。ただ、競技を続ける中でそれも大変だというのが年々わかってくるんです。中学2年のシーズンが終わったタイミングで、井村シンクロクラブ(井村雅代ヘッドコーチが代表を務めるクラブ。現・井村アーティスティックスイミングクラブ)へ移籍しないかと声を掛けていただいて…やはりオリンピック出るためには強いクラブチームに入って、上手い先輩方と一緒にチームを組ませて頂いたり、代表のコーチをされている方に直接指導を受けた方が上手くなったりするかな…と思って。いろいろ考えた結果、大阪の井村シンクロクラブに移りました。
1日10時間以上、水中にいる生活も
高校2年ぐらいの時に、本当にシンクロが嫌になったときがありました。練習をサボって、友達と遊んだりしたんですけど、全然たのしくなかった。
一度シンクロから離れることで自分がシンクロ好きだと気付けたんです。遊んでいる中で物足りなさを感じたんですね。小学校2年生の時からシンクロ始めて、もっと言えば生後10ヵ月から水の中にいる人間が陸に上がったからこそ味わう変な感覚というか。泳いでいる時がいちばん生き生きしているなぁ…と。
怒られてすごくつらい思いもするけど、シンクロしている時が、遊ぶよりも楽しいなと思ったんです。
合宿だと最低10時間は水の中に入っていました。朝起きて8時からプールに入って、夜の20時ぐらいまで。全部の練習が終わるのは23時。ご飯を食べる時間が1時間あったら「ラッキー!」みたいな感じですかね。あとはひたすら泳ぐ。夜20時までやらない時はその分ウエイト・トレーニング。
寝る以外は何も休まらなかったですね。代表合宿だとこれを1ヵ月ぐらい続けていました。これが普通なんですけど、嫌でした。
私は本当に練習が嫌いだったんです。シンクロは大好きです。見るのも好きだしやるのも楽しいんですけど、怒られるのも嫌いだし練習も嫌い。しんどいことが嫌いなので、いろいろと矛盾すると言いますか。
でも、シンクロが好きだったからとオリンピックに出たかった。このふたつがあったので続けられたのだと思います。
試合もそんなに好きじゃなかったんです(笑)。すごく緊張するし、試合前は本当に胃が痛くなったり、泣くぐらい緊張したり、と。プレオリンピックが2008年の4月にあった時は緊張しすぎて、終わった後に気が抜けたのか、本当に死ぬかもと思うくらいにお腹が痛くなったんですよ。すぐドクターに診てもらいました。
それくらい本当にプレッシャーにも弱いですし、緊張もする。なので、ソロが好きです。間違っても誰にも迷惑をかけないし、自分の好きな演技ができる。
チームや代表の時もずっと最年少だったんですけど、「自分が失敗したら迷惑をかけるかもしれない」という考えが強くて。ひとりだと失敗したところで自分の責任だし、誰にも迷惑かけないですよね。
代表に入って日の丸を背負うとより責任感も出てきますから。子供の頃はそこまで「みんなに迷惑をかけるかも」とは思わなかったです。
五輪出場、目標達成後のモヤモヤ感も
オリンピックという目標があったからこそ苦手な練習も乗り越えられました。その中でプレッシャーは確かにありました。ただ、団体競技の良いところでもあるんですけど、「みんなでいるから怖くない」と言うか…。「この8人だったら乗り越えられるな」という感覚もあります。それが8人でやっている良いところかなと。苦しいことも良いことも全部一緒に乗り越えて来たメンバーですし。これがソロだと感じられない部分かなと思います。ひとりと8人では得られるものが違いますね。
結果としてオリンピックに出るという目標は達成したのですけど、いつからか「オリンピックに出ること=メダルを獲ること」になっていたので、そこは達成できていません。そこのモヤモヤ感は確かにありました。
ただ、オリンピックの前に先輩方が引退するというのを聞いていて、私もどうしようかなと考えていたんです。そのときはチームの中で一番若く、23歳でした。辞めるにしては早すぎると思ったんですけど「みんなが辞めるんだったら辞める」ではないですけど、それ以外のメンバーとチームが組める気がしなかったんです。
そのチームだったからこそ自分が活きていたし、練習に耐えられていたのかなと考えました。その先輩方の背中をいつも見てきた。それがみんな辞めるとなれば、自分が一番上になるわけじゃないですか。(オリンピックを)経験したから…という理由で引っ張り役を任されたとしても、私はそういうタイプでもない。
そう考えたとき、「みんなが辞めるんだったらここで自分も辞めよう」と。母が病気だったこともあって、それが重なったから引退しました。たぶん母が元気だったらもうちょっと悩んでいたと思います。
2005年に初めてA代表に入った時から一緒のメンバーでやってきて、長いような短いようなわからない4年でした。一緒にやっていたメンバーは心強かったですね。あのタイミングで何人かが残っていたら、辞めてなかったかもしれません。
<写真・撮影:山本晃子>
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(次回に続く・・・)
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