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安彦 考真

2019/2/19

カズに憧れブラジルへ渡った安彦考真が40歳でJリーガーを志した理由

 高校在学中に単身でブラジルに渡った安彦考真選手は、2度目のブラジル挑戦でプロ契約を掴み取ったが、怪我の影響で契約を解除されてしまった。帰国後もプロを目指し、Jクラブのテストを受けたものの、結果は不合格。

 その後、プロを諦め指導者の道を歩むものの、ある生徒との出会いをきっかけに再びプロを目指す。クラウド・ファンディングを活用して水戸ホーリーホックの練習に参加、40歳で念願のJリーガーへ。現在はJ3のY.S.C.C横浜に所属している。

 無名の高校でプレーしていた彼はなぜ、ブラジル行きを決意したのか…。そして、一度はプロの道を諦めた彼が、再び這い上がるきっかけとなった出会いとは何だったのか…。

編集者 竹中 玲央奈
㈱LinkSports

アルバイトと部活動の両立、高校で単身ブラジルへ

 僕がサッカーを始めたのは幼稚園のときです。父親の影響で野球もしていて、父親とはキャッチボールの練習、友だちとはサッカーの練習という日々を過ごしていました。それから中学までサッカーを続けて、小林悠選手(川崎フロンターレ)や太田宏介選手(FC東京)の母校である麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高等学校)のサッカーテストに合格。ただ、当時の僕は頭が悪くて、偏差値の問題で進学できず、新磯高校(現・相模原青陵高等学校)に入ることに。

 高校サッカーにおいて、選手権の県予選で優勝を狙うような私立高校を目指していたものの、それが叶わずに普通の公立高校に進学する人は多いと思います。そこから這い上がってプロを目指す人も中にはいますが、現実的にはなかなか難しい。だからこそ、僕が高校3年でブラジルに行くと決めたときには、周りからは批判がありました。

 実は僕の中では、渕野辺高校に進学できないと分かった時点で、ブラジルに行くことは考えていたんです。そのきっかけを与えてくれたのが、カズ(三浦知良)さん。カズさんが高校1年でブラジルに渡り、プロの道を勝ち取った姿を見て、自分もそうなりたいと思ったんです。当時はJリーグが始まったばかり。その舞台で活躍することが現実的には考えられなかったので、カズさんのように「逆輸入」でJリーガーになろうと。

 しかし、ブラジルに行くためのパンフレットを家に取り寄せたところ、すぐに親に捨てられてしまいました。「高校も卒業していないのに何を言っているんだ」と。行かせてもらえると思っていたんですが、考えが甘かった(笑)。現実はそう簡単には行かないものだと思い知って、受験して公立高校に進学することになりました。

 高校生活ではブラジルに行くことは一旦考えずにおいたのですが、ある日サッカー部の友だちがブラジルに行っていたという噂を聞いたんです。実際にその友だちに話を聞いたのですが、どこか負けた気がして。すぐ両親に「高校を辞めてブラジルに行きたい」と伝えましたが、やはり断られてしまいました。

 それでも短期間で良いからブラジルに行きたいと伝えたら、自分でお金を貯めていけば良いと言われました。友だちが新聞配達をしていたので、僕も始めることにしました。朝2時に起きて、3時から自転車で配達をする生活を半年くらいは続けていた。そのまま朝練に行って、授業はずっと寝ていましたね(笑)。月9万円くらいは稼いだときもあったので、渡航するには十分な額が集まりました。

ブラジルでプロチームと契約も前十字靭帯断裂

 僕の高校はヤンキー校で、当時はすごく荒れていて、喧嘩も日常茶飯事だった。そんな中、サッカー部もそこまでレベルは高くなかった。でも、友だちがブラジルに行った噂を聞いてからはサッカー熱に火が付いていました。

 それからは周りにサボっている人がいれば叱るようにもなりましたし、とにかく部活に真剣に取り組んでいました。その結果、僕を擁護してくれる人が3人くらいで、「もっと楽しくやらせてほしい」と言う人が27人くらい。完全に分断してしまった。

 その3人のうちのひとりは、YSCCの練習試合を見に来てくれたこともあります。そういうところで賛同してくれた人とは、不思議と縁がずっと続いて行くものです。

 結果的には貯めたお金でブラジルに行くことができました。1カ月で帰る予定だったのですが、帰国前に現地で所属していたチームのサイドバックが怪我をしてしまい。ちょうど僕のポジションもサイドバックだったので、監督から「残ってくれないか」と言われたんです。僕自身も残りたかったので、両親に何も相談せずに残ることを決めました。

 初めて人に評価された瞬間だったかもしれないですね。中学では部長をやっていて、地域の大会などで優勝して、朝礼で表彰されることはありました。ただ、周りの部員からは「大したこともしていないのに、何を良い気になっているんだ」と言うような目で見られていた。何かを成し遂げたという感覚はなかったんです。

 監督と話がついた後、両親にブラジルに残ることを連絡しましたが、高校はどうするのかと心配されましたね。このまま帰らなければ卒業もできない状況でしたが、なんとか卒業要件を調整してもらえた。最終的には3カ月間ブラジルにいました。

 帰国後は部活動を再開しましたが、またブラジルに行きたいという思いがある中で、大学進学のことも考えていました。ただ、日本体育大学の推薦入試を受けたものの落ちてしまいました。結局大学には進学をせず、アルバイトを掛け持ちしながら、OBとして高校の練習に行って、後輩を指導しながらサッカーを続けていました。そんな生活を2年くらいは続けていたと思います。

 その後にもう一度ブラジルに渡って、グレミオ・マリンガというプロチームと契約することができたのですが、リーグ開幕前に前十字靭帯を断裂。そのこともあって契約が解除されてしまった。現地に残ってU-12の選手の指導などを行なっていました。

ある生徒との出会い、すべての仕事を辞めプロへ

 しばらく経ってビザの関係で日本に帰国することになりましたが、縁があってジーコの兄であるエドゥーのもとで、選手兼コーチ兼通訳として働き始めました。清水エスパルスとサガン鳥栖の入団テストも受けましたが、まったく歯が立ちませんでしたね。

 清水では青森山田高校との練習試合に出場させてもらったのですが、30分×3本の1本目で交代させられてしまいました。その後、試合後にエスパルス・ファンの方からサインを求められたんですよ。「練習生の安彦選手ですよね、サインいただけますか」と。ただ、あまりに不甲斐ない結果だったので断ることしかできなかった。今思えば書いておけば良かったなと。その方に会いたいとも思っています。

 それからは自分に自信がなくなってしまいました。ちょうどそのときに大宮アルディージャから通訳のオファーが来て、ブラジル人に恩返しをする良い機会だと思ったので、エドゥサッカーセンター(CFE)を辞めて、引き受けることにしました。

 大宮では3年間通訳として働いて、その後は北澤豪さん(元東京ヴェルディ)のもとで「FOOT」というスクールの立ち上げに携わり、北澤さんの個人事務所のマネジメントも行ないながら7年間お世話になりました。つまり約10年間はサッカーをプレーしていなかったことになります。正直、後悔しかなかったですね。もう30歳を超えていましたから。

 結局は指導者を続けながら社会人リーグに参加して、もう一度サッカーをプレーすることになりました。その中で、通信制高校の中央高等学院と東京ヴェルディがタッグを組んで、中央高等学院中央アートアカデミー高等部にbiomサッカーコースを作りました。私はディレクターを務めていましたが、当時のサッカーコースの監督が、実は現YSCC監督のシュタルフ 悠紀 リヒャルトでした。

 当時はお金に余裕ができて、恵比寿の高級住宅に住んでいましたが、一方でどこかやるせなさがあった。志があって始めた仕事が、目の前の生活を守るための仕事に変わってしまった気がして、だんだんと仕事のモチベーションがなくなって行きました。

 そんな中で、中学3年間は不登校だったものの、サッカーが好きだからという理由で、わざわざ学生寮に入ってまでサッカーコースに来てくれた生徒に出会いました。その生徒には「これからは時代が変わるから、今とは違った生き方を考えよう」、「もし大学に行きたければ、それがなぜなのかを考えよう」と、偉そうに語っていました。

 ある日、その生徒が1500円の本を買うためにクラウド・ファンディングをやったことを話してくれました。結果的には300円しか集まらなかったのですが、衝撃がすごく大きくて。

 その生徒に負けたような気がしました。僕は常日頃から10回素振りをするよりも1回バッターボックスに立つことが大切だと思っているんです。僕はあれだけ偉そうに語っていたのに、ずっとプロサッカー選手になる道から逃げていたんです。バッターボックスに立っていなかった。

 そうして過去の自分を思い返していくうちに、プロになりたいという純粋な気持ちに戻って行きました。とは言え、プロになるためには周囲に覚悟を見せなければいけない。

 まずは仕事をすべて辞めました。

<写真・撮影:市川 亮>

(次回に続く・・・)

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サッカー

安彦 考真(あびこ たかまさ)

生年月日
1978年2月1日(41歳)
出身地
神奈川県相模原市
身長
175cm
体重
74kg
在籍チーム
Y.S.C.C.横浜
ポジション
FW
背番号
41

竹中 玲央奈(たけなか れおな)

プロフィール
㈱LinkSports スポーツデジタルマーケティング部部長。スポーツWebメディア「AZrena」や「舞洲Voice」の運営・編集とスポーツチームの管理アプリ「Teamhub」のマーケティングをメインで行う。大学時代から国内サッカーの取材活動を開始し、卒業後は数々のサッカー専門誌へ寄稿。現在も幅広く日本のサッカー現場を取材し、個人のWebマガジンで発信中。ライター/編集者/webディレクターとして、様々なコンテンツメイキングに携わっている。

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